教皇の LGBT に関する発言

教皇 Francesco の LGBT に関する発言を幾つか御紹介します.

2016年11月12日,慈しみの特別聖年の接見での教皇 Francesco の説教:慈しみと包容

神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する.God's love excludes nobody, but includes everybody.

この命題は,わたしたち LGBTCJ の旗印です.

以下に御紹介する説教において,教皇 Francesco は,キリスト教における包容の本質的な重要性を強調しています.性的少数者のことを直接には話題にしていませんが,包容の鍵言葉のもとに,教皇は,LGBT 差別を含む如何なる差別をも許さない彼の司牧姿勢を明確化しています.

なお,inclusion という語が「包摂」と翻訳されているのをときどき見かけますが,わたしたちは以前から「包容」と訳しています.

慈しみと包容

親愛なる兄弟姉妹の皆さん,こんにちは!

土曜日に行われてきた特別聖年の接見も,今日で最後です.そこで,慈しみの重要な側面を指摘しておきましょう.それは,包容 [ inclusion ] です.

実際,神は,愛の御計画において,誰をも排除しようとはせず,而して,すべての者を包容したいと思っておられます.

例えば,神は,洗礼をとおして,キリストにおいて,我々皆を神の子としてくださいます.つまり,キリストのからだは教会であり,我々はその手足です.

その同じ基準を,我々キリスト者は用いるよう招かれています.

慈しみとは,このように行うことです:すなわち,慈しみにおいて,我々は,我々自身のうちへ – 我々の自己中心的な安心のうちへ – 閉じこもることを避け,他者を我々の生のなかへ包容しようとします.

先ほど朗読されたマタイ福音書の一節において,Jesus は,ひとつの本当に普遍的な招きを我々に向けて発しています:「皆,わたしのところに来なさい.あなたたちは皆,重荷を背負って苦しんでいる.そのようなあなたたちに,わたしは安らぎを与えよう」(11,28). この呼びかけから排除される者は,誰もいません.なぜなら,Jesus の使命は,あらゆる者に御父の愛を啓示することだからです.

我々の側が為すべきことは,心を開くことです.Jesus に信頼し,この愛のメッセージを受けとめることです.そうすれば,救いの神秘に入ることができます.

包容という慈しみのこの側面が明らかになるのは,排除せずに – 人々を,その社会的身分や言語や人種や文化や宗教に基づいて分類せずに – 受け容れるために両腕を大きく開くときです.

そのとき,我々の前には,ひとりの愛するべき人がいます – 神がその人を愛しているように,我々もその人を愛するべきです.我々が仕事で出会う人,近所で出会う人は,神がその人を愛しているように我々も愛するべきであるひとりの人です.

異なる国の出身であり,異なる宗教の信者であっても,神はその人を愛しており,我々もその人を愛するべきです.それこそが「包容する」ということです.それこそが包容です.

今日,どれほど多くの抑圧され,疲れ切った人々に出会うことか!通りでも,公的機関でも,病院でも... それらの人々ひとりひとりの顔に Jesus は目をとめます – 我々の目をとおして.

そのとき,我々の心はどうであるか?慈しみ深いか?我々の考えは,行いは,包容的であるか?

福音書は,ひとつの偉大な包容の御業(みわざ)の計画を人類の歴史のなかに認めるよう,我々に呼びかけています.その御業は,各人に呼びかけています:各人,各共同体,各民族の自由を完全に尊重しつつ,正義と連帯と平和において,兄弟姉妹としてひとつの家族を形成するように,そして,キリストのからだである教会のメンバーとなるように,と.

疲れ切った人々を,Jesus は,安らぎを見出すために彼のところへ来るよう,招いています.この彼の言葉は,なんと真であることか!

十字架の上で大きく広げられた彼の両腕は,このことを証しています:彼の愛と慈しみから排除される者は誰もいない.最も大きな罪を犯した者でさえ排除されていない.誰も!我々は皆,彼の愛と慈しみのなかへ包容されています.

Jesus のなかへ迎えられ,受け容れられている,と感じさせてくれる最も直接的な表現は,赦しの表現です.

我々には皆,神によって赦される必要があります.そして,我々には皆,我々が Jesus のところへ行くのを – Jesus が十字架の上で我々に与えてくれた贈りものに対して我々が自身を開くのを – 手伝ってくれる兄弟姉妹と出会う必要があります.

互いに壁を高くしあうのはやめましょう!誰も排除しないようにしましょう!

そうではなく,謙虚に,素朴に,御父の包容的な慈しみの道具になりましょう.御父の包容的な慈しみ:それです!

死んで復活したキリストの大きな抱擁を,聖なる母なる教会がこの世において継続して行くことができますように.この San Pietro 広場の柱廊も,キリストの抱擁を表現しています.

他者を包容するこの動きが我々に触れてくるにまかせましょう – 神が我々ひとりひとりを迎え入れてくださる慈しみの証人であるために.


2016年10月02日,Baku から Roma への帰途の機上記者会見で:
LGBT の人々に寄り添いましょう.イェス様ならそうなさるでしょう.

わたしの人生において,司祭として,司教として,そして教皇としても,わたしは,同性愛者たちに寄り添ってきました.彼ら彼女らが主に近づくことができるようにしてきました.そうできない人々もいましたが,わたしは寄り添いました.誰も見捨てませんでした.

イェスが彼ら彼女らに寄り添うように,彼ら彼女らに寄り添わねばなりません.彼ら彼女らのような状況にある人がイェスの御前にやってきたら,イェスは「同性愛者は立ち去れ」とは決して言わないでしょう.(...)

昨年,或るスペイン人男性から手紙を受け取りました.彼は,自身の子ども時代と思春期のことをわたしに物語ってくれました.彼は,女の子でした.しかし,身体的には女の子なのに,自身を男の子と感じていたので,とても苦しみました.(...) [性別適合の]手術を受けて,スペインの或る町の公務員になりました.彼は,司教に会いに行きました.その司教は,彼に寄り添いました.良い司教です.それから彼は,戸籍上の性別も変え,結婚しました.そして,わたしに手紙を書きました.妻も一緒にお会いくだされば慰められます,と.そこで,わたしは彼と彼女に会いました.ふたりは喜びました.(...)

人生は人生です.物事は起きるがままに受け取るべきです.(...)

[LGBT の人々]ひとりひとりを迎え入れ,寄り添い,その人をよく見て,分析し,総合します.今日,イェスならそうなさるでしょう.(...)

事は,道徳の問題であり,人間的な問題です.問題は,解決可能なように解決されねばなりませんが,常に神の慈しみを以て,真理を以て,解決されるべきです.(...) 常に開かれた心を以て.


2016年6月26日,アルメニアからの帰途の機上記者会見で:
教会は同性愛者たちに赦しを請わねばなりません.

Cindy Wooden (Catholic News Service) : 2, 3日前に Marx 枢機卿は,現代世界における教会を主題として Dublin で催されたとても重要な大きな学会での発表で,カトリック教会は同性愛者差別について gay community にお詫びしなければならない,と言いました[2016年6月23日,Trinity College Dublin で The Loyola Institute が « The Role of Church in a Pluralist Society : Good Riddance or Good Influence ? » のテーマで催した国際学際学会における München 大司教 Reinhard Marx 枢機卿の発言].Orlando での無差別殺人事件[2016年6月12日に起きたフロリダ州 Orlando の gay nightclub Pulse における多人数殺傷事件]の後,多くの人々が,キリスト教は同性愛者に対する憎悪に何らかのかかわりがある,と言いました.どうお考えですか?

教皇 Francesco : 教皇としての最初の旅行[2013年7月,Rio de Janeiro 訪問]の際に言ったことを繰り返しましょう.そして,わたしが繰り返しているのは,『カトリック教会のカテキズム』 [ nº 2358 ] が言っていることです:同性愛者たちを差別してはならない;彼ら・彼女らを敬意を以て[教会に]迎え入れ,司牧的に彼ら・彼女らに付き添わねばならない.(...)

問題がそのような事情[同性愛の性向]を有している人のことであり,その人が善意の人であり,かつ,神を探し求めているならば,そのような人を断罪するような我々は何者でしょうか?

我々はしっかり寄り添わねばならない.カテキズムはそう言っているのです.カテキズムは明瞭です.(...)

わたしはこう思います:教会は,Marxist 枢機卿が言ったように(笑),教会が傷つけてきた gay の人々にだけお詫びすれば良いのではありません.貧しい人々にも,女性にも,労働において搾取されている子どもたちにも,お詫びしなければなりません.かくも多くの武器や兵器を祝福してきたことについてもお詫びしなければなりません.教会は,行動しないことが数多くあったことについてお詫びしなければなりません.

わたしは「教会」と言いましたが,それは「キリスト教徒」のことです.教会は聖なるものであり,罪人であるのは我々です.

キリスト教徒は,かくも多くの選択に付き添わなかったこと,かくも多くの家族に寄り添わなかったことについて,お詫びしなければなりません.

わたしは,子ども時代の Buenos Aires の文化のことを憶えています.閉鎖的なカトリック文化.わたしの出自です.離婚家族の家を訪れてはならないとされていたのです!ほんの80年前のことです.文化は変わりました.神に感謝!

キリスト教徒がお詫びしなければならないことは,ほかにもたくさんあります. 赦しを請うのです.お詫びするだけではありません.

主よ,お赦しください! それは,我々が忘却している言葉です.(...)

[慈しみ深い]父ではなく,[厳しい]主人であるような司祭,抱擁し,赦し,慰める司祭ではなく,鞭打つ司祭,そのような司祭がたくさんいます.しかし,病人や受刑者に付き添う司祭もたくさんいます.多くの聖人もいます.

だが,彼らは目に見えません.なぜなら,聖性は慎み深いのです.聖性は隠れています.逆に,厚かましさは目立ちます.目立つし,見せびらかします.

多くの組織 – そこには善人もいるし,あまり善人でない人々もいます.あるいは,ちょっと大きめの財布を渡してあげたくなる人々もいれば,他方で,あの[20世紀の]三大虐殺[トルコによるアルメニア人虐殺,Nazi によるユダヤ人虐殺,Stalin による虐殺]を起こした国際的な大国のようなのもあります.

我々キリスト教徒 – 司祭,司教 – も,そのようなことをしたのです.しかし,我々キリスト教徒は,カルカッタのテレサのような人をも持っています.カルカッタのテレサのような人々を,たくさん.アフリカの多くのシスターたち,多くの一般信徒,多くの聖なる夫婦.

良い麦と毒麦です.神の御国はそのようだ,とイェスが言うように.

そのようであることに躓いてはなりません.我々は祈らねばなりません.主が,毒麦は終わり,良い麦がより多くあるようにしてくださるよう,祈らねばなりません.

教会の生は,そのようなものです.境界を引けるわけではありません.我々は皆,聖なる者です.なぜなら,我々は皆,聖霊を内にいただいているからです.しかし,我々は皆,罪人です.わたしを始めとして.

よろしいですか? ありがとう.答えになったかどうかわかりませんが...

お詫びするだけでなく,赦しを請いましょう.


2016年03月19日付の使徒的勧告 Amoris laetitia(愛の喜び)第250段落:

主イェスは,限り無き愛において,各人のために – 例外無く,あらゆるひとりひとりのために – 御自身をおささげになった.そのような主イェスの態度を,教会は自身のものとする.シノドスに参加した神父たちとともに,わたしは,同性愛の性向を顕わす者を内に擁する経験 – 親にとっても子にとっても容易ならざる経験 – を生きている家族の状況を考慮した.それゆえ,我々は,まず,就中,このことを改めて断言したい:あらゆる人間は,その性的性向にかかわりなく,その尊厳において尊重されねばならず,敬意を以て –「あらゆる不当な差別の刻印」(カテキズム nº 2358)を避ける配慮を以て,および,特に,あらゆる形の攻撃や暴力を避ける配慮を以て – 迎え入れられねばならない.重要なのは,逆に,同性愛の性向を顕わす家族メンバーが,その人生において神の意志を了解し,かつ十全に実現し得るために必要な手助けを受益し得るよう,教会が敬意を以てその家族に寄り添うことが確実にできるようにすることである.


2013年8月,La Civilità Cattolica 誌のインタヴュー:

もしここに同性愛の人がいて,彼・彼女が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,わたしは,その人を断罪する者では全然ない.(...)

或るとき,わたしに挑発的にこう質問してきた人がいた:「あなたは同性愛を容認するのですか?」それに対する答えとして,わたしは彼にこう問い返した:「ねえ,君,神は,ひとりの同性愛の人を見て,その存在を愛情深く是認なさるだろうか,それとも,その人を断罪しつつ退けるだろうか?」

常に人間をその存在において考えねばならない.ここでかかわっているのは,人間の神秘である.我々の人生において,神は我々人間に寄り添ってくださっている.そのように我々も,人々に寄り添わねばならない – 彼ら・彼女らの事情にもとづいて.慈しみ深く寄り添わねばならない.